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歴史探訪

ページID:0001152 更新日:2023年1月30日更新 印刷ページ表示

伊平屋に残る歴史や伝統ってどんなものがあるの?と喋っている、お墓の前で手を合わせている人の画像​歴史と伝説、祭祀があふれる島・いへや。
歴史、伝説の場所やものをじっくりと散策すると、
先人たちの人間ドラマが伝わってきます。

 

天の岩戸伝説があるクマヤ

クマヤ洞窟の外観と洞窟内部の画像

田名地区にあるクマヤは、独特の風貌にお似合いの説話が残されています。江戸時代の学者、藤井貞幹が「天の岩戸は、ここだ」と発表。以来、次々と学者や研究者が訪れ、ついに昭和33年に史跡文化財に指定されています。 クマヤの中には高さ5メートル、広さ200坪ほどの洞窟があります。穴の奥は、対岸の西海岸まで伸びていて、そこの入口は西クマヤ穴と呼ばれていたそうです。 その昔、七束の松明でその洞窟を通り過ぎるとき、ヘビを七匹退治したという説話があります。また穴の奥には、石垣に囲まれた住居跡も残っているそうです。クマヤの由来は、神がこの穴に籠っていたので籠穴(クマヤ)と呼ぶようになりました。

​​琉球の第一尚王統の祖先、屋蔵大主ゆかりの地

屋蔵大主(やぐらうふぬし)は琉球国王英祖(えいそ)の五男として生まれ、今から約600年前、現在の我喜屋集落の上里に住んでいたと伝えられています。 二男二女をもうけ、長男は鮫川大主、次男は上里按司、長女は我喜屋親祝女(のろ)、次女は、我喜屋祝女に就任させました。その長男鮫川大主が第一尚氏の元祖。

片隈神社の画像
片隈神社
屋蔵大主が居住していた敷地を屋蔵屋敷といい、その側にある森を片隈森と唱えて、集落民の守護神を崇めて、現在片隈神社が建立されています。

屋蔵墓の画像
​屋蔵墓
屋蔵墓は、我喜屋集落から島尻方面に約1キロにある俗にいうヤグラ海岸にある葬った由緒ある石積みの墓陵。

貞女と無蔵水​

無蔵水の画像

田名集落から北東の西海岸の波打ち際のところある無蔵水は、女性の模範として讃えられるお話が残されています。 昔、田名村に一家を構える若い夫婦がいました。その夫がある年の夏、小船で田名岬の沖へ釣にでたが、にわかに起こった風波のため吹き流されて2,3年の間行方不明になり、世間の人々はその夫は溺れ死んだものと思っていました。器量の良かったその妻は、周囲から縁談申込みや親の再婚の勧めを「自分の夫は彼一人で彼が帰るのを待つ」と断り続けました。

妻は、ひそかに夫が出かけた沖の見える無蔵水の水を頼りに、そこで機織りをして暮らし夫の帰りを待ちつづけました。すると、夫は遠い国へ漂着し都合を見計らって帰るとの知らせが届き、妻は大いに喜こんだ。 そしてついに夫は帰ってきた。その後夫婦は夫婦お互いに励み家を起こし立身出世をしたとのことです。

その後人々は、彼の妻の貞操を讃え、女性の戒めとして 「大田名のこしにンゾ水のあゆん、夫ふゆるあんぐわあれにあみし」と歌たい、女性の模範として多くの人々から讃えられました。 また、その当時無蔵水には、千年湧水鏡の如く万年永伝貞婦の徳と記されて板が立てられていました。

神アシャギの由来

​​島尻の神アシャギと我喜屋の神アシャギの画像

伊平屋島の島尻、我喜屋の2箇所にある神アシャギは、祭祀の日に神々が神職に憑いて降臨(神仏が天界から地上に天下ること)し給い、氏子(共同の祖先神をまつる人々)から祝福を受ける場所。また、神遊びし給う所です。

その構造は、柱の低い茅葺きの掘建小屋で、壁も床もなくその座敷は土間で、祭祀の時にわらや芭蕉の葉を並べて、その上にむしろを敷いて神座をつくります。神アシャギは、古代海からこられるニライカナイという神国からの神々を迎える場所であるとのことで、海上に床を設けられていましたが、後年改装して、根屋の近くに建てられようになりました。周囲は、広々とした庭であって、神遊びにはその庭でおもろを歌って神遊びを行っています